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聖霊体験を生きる

序章「洗礼(バプテスマ)の奥義」

1 聖霊による洗礼(バプテスマ)

イエスは・・・彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。
「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた父の約束されたもの(註・聖霊)を待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼(バプテスマ)を授けられるからである。」  

聖書によると、洗礼(バプテスマ)には二つの種類がありますが、 二つの種類 しかありません。すなわち、
(1)ヨハネによる水の洗礼と、そして
(2)聖霊による(イエスのみ名による)洗礼、との二つです。  

ところで、皆さん、私たちは洗礼を受けて信者になり、カトリック信者として受洗簿に歴然と記名されているのですから確かに洗礼を受けたことは間違いありません。さて、私たちは上に掲げた二種類の洗礼のどちらを受けたのでしょうか? などと問うまでもありませんね。新約の教会には、「ヨハネによる水の洗礼」は意味がなくなりましたから、私たちの受けた洗礼は、もちろん「聖霊による洗礼」以外の何ものでもありません。

それは、この洗礼が「三位一体の奥義」そのものと、神秘的な実存的なかかわりを持つものだからです。  

イエスはこの世を去るに当って弟子たちに次のように言われました。

「あなたたちは行ってすべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の み名に入れる洗礼 を授け・・・」
(マタイ伝28・19=註・フランシスコ会聖書研究版)  

今、ここで三位一体の奥義を註解するつもりはありませんが、聖霊とは、第一のペルソナ(他と区別されて自立する位格)である無限の存在・ 父 の愛と、第二のペルソナである無限の 子 の愛を一つに 交わらせ一つに結んで両者から発出する第三のペルソナ・ 結びの愛・愛の霊 なのです。神は三つのペルソナでありながら絶対の唯一神、唯一無二の神性なのですから、聖霊は父の霊でもあり、子の霊でもあり、そして神ご自身の息吹(ルアッハ)でもあります。ですから、私たちが洗礼を受けて、父の約束されたもの(聖霊)を受ける時、私たちは三位一体の神の無限の愛のふところの深奥に導き入れられて 神の子ら となるのです。  

私たちが受ける洗礼、「聖霊による洗礼」とは、まさにそのような驚嘆すべき神と人との神秘極まる合一の秘跡(サクラメント)なのです。パウロは言いました。「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。」(一コリント3・16)と。そのように、洗礼は単なる信仰入門の外見的しるしや儀式ではありません。  

ですから聖霊による洗礼を受けるには、それだけに重要な前提条件が必要です。その条件とは、まず、「福音が宣べ伝えられて、人々がイエスの弟子になるように導かれる」という外からの条件と、受ける人の内面から、「悔い改めて( 回心して )、福音を信じる」という条件です。もちろん主のみおしえのすべてを悟って、信じるということは、聖霊の助けによって初めてできることなのですが、その聖霊を受けるためには人間の側からの意志の協力が絶対に必要なのです。
さて、それだけの条件を満たして「聖霊による洗礼」を受けたなら、私たちに何らかの内面的な変化(恵み=賜物)が与えられるのでしょうか?

与えられるのです!  
イエスははっきり具体的に二つの恵みを約束されました。  
一つは、私たちの霊を照らす超自然的な 光 です。  
「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち真理の霊が来ると、あなたがたを導いて、 真理をことごとく悟らせる 。」(ヨハネ伝16・12~13)  

「真理をことごとく」とは、文字通り、「キリストの測り知れない豊かさ」「すべてのものを造られた神のうちに永遠の昔から秘められて来た神秘の実現」(エフェソ書3・9)・・・つまり、自然と超自然の真理の一切合切に改めて目覚めるような豁然(かつぜん)たる開眼・・・それが「聖霊による洗礼」にイエスが与えられた約束の一つです。  

さらにイエスは、もう一つの賜物を約束されます。それは 力 です。  
「聖霊があなたがたの上に降ると、あなたがたは 力を受ける 。そして、エルサレム(大都会)ばかりでなくユダヤとサマリアの全土(全国津々浦々)で、また地の果てに至るまで(全世界に)、わたしの証人となる。」(使・行・1・8)

聖霊によって受洗者の知恵が超自然的に照らされ、神のおん子の受肉の意義と被造界の終末論的祝福の目の覚めるような悟りが、一つの体験となって私たちに襲いかかると、私たちは「これは大変だ!」という驚愕で身動きができなくなります。その時のただ一つの衝動は「この驚きと喜びを何としてでも全人類に宣べ伝えねば・・・」という止むに止まれぬ欲求です。パウロは叫びました。「福音を宣べ伝えないではいられない。もし福音を宣べ伝えないなら、わたしにとってわざわいだ!」(フランシス会版)  

そうしないではおれない、内から燃え立つ炎のような力・・・キリストの証しのためには生命をも投げ出す殉教の勇気・・・。  

聖霊によって照らされた知恵と、聖霊によって湧き起こる躍動の力・・・これは人間の脳細胞の働きではありません。脳細胞は深く粛然と静もっていながら、私の全人間ががっちりと受けとめる異様な体験―まさに「 聖霊体験 」としか呼びようのない異常体験そのものなのです。  

私たちが受けた「洗礼(バプテスマ)」とは、そのような体験を私たちにもたらさずには おかないはず のものなのです。

2 聖霊体験

「まさか!・・・それは余りにも誇張し過ぎた空想的観念論に過ぎない」と思うひとがあるなら、もう一度上述した主イエスのはっきりとした お約束 (使・行1・8、ヨハネ伝16・12~13)を思い起こして下さい。神のみ子・主イエスご自身の言葉です。それが信じられないなら、私たちはもう キリスト信者 とは言えません。  

「でも・・・」と私たちは言い募るかも知れませんね・・・私たちは本当に洗礼を受けて 神の子 になり、死ねば天国に行けると信じ、そう信じて洗礼を(さらに堅信をも)受けた。けれどもそんな「聖霊体験」などという大それた恩恵も心境の変化も味わった覚えはない。それが普通の一般信者の姿だ・・・が、それでよいのでは・・・どっちみちわたしたちは「聖人」なんかにはなれっこないんだから・・・と。  

いや、絶対にそうではありません。イエスのおことばを信じるなら(無論信じなければなりません)、聖霊は、洗礼(「聖霊による洗礼」)によって、間違いなく私たちに来られたのです(使・行1・4~8参照)。本当に来て、私たちの知恵を超自然の光で照らし、私たちの心と体を力づけて、私たち みんな をキリストの証し人(『あなたがたが聖なる者となること、これが神のお望みです』(一テサロニケ書4・3)に変容させようと渇望して、私たち一人ひとりの全存在の中に満ちみなぎっておられるのです。ああ、それだのに、私たちはその、主の焼けつくような渇きに真剣な愛で応えようとしないのです。十字架上で血にまみれて「われ、渇く!」と訴えられたキリストの愛の渇きに私たちはむしろ不感性なのです。一体なぜでしょうか?  

それは、私たちが「(聖霊による)『洗礼』」というものの真の秘儀を深く悟らないで(教えられないで)、「肉の欲、目の欲、生活のおごり」(一ヨハネの手紙2・16)という自我への執着の扉で私たちのいのちを堅く閉ざしたまま、洗礼を受けたからです。  

聖霊は燃ゆる奔馬(ほんば)のように、弱く小さな私を自由自在に操りつつ、キリストのみわざ、いやそれよりももっと大きな業(わざ)(ヨハネ伝14・12)を地の果てに至るまで成し遂げさせようと、私たちが聖霊に全身全霊を委ねるのを手ぐすね引いて待ち焦がれておられるのです。  

黙示録の中で聖霊は、ヨハネの口を借りて告白しておられます。  「見よ、わたしは戸口に立って叩いている。誰かわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば・・・」(黙3・20)。  

しかし、静かに心の耳を澄ますと、聖霊の戸叩(ノック)の音は、外からではなくて内からの音のように聞こえるではありませんか?  

「わが子よ、開けておくれ。私はおまえの密閉された闇の中で、身動きもならず窒息しそうだ。早く私を開放して自由にしておくれ・・・」  

自我への執着からの完き解脱(げだつ)・・・それは言うは易くして行なうはむずかしいこと。「はい、そうします」と一言で簡単に片付くものではありません。自我との闘いに勝利を得るのは時間が必要です。ですから、主は命じられました。  

「エルサレムを離れず、前にわたしが聞いた父の約束されたもの(聖霊)を 待ち なさい。」(使・行1・4)  

弟子たち(凡そ百二十名)は、例の高間に集まって祈りつつ、ひたすらに待ちました。そして十日が過ぎた五旬祭(ペンテコステ)の日に、彼らは「聖霊による洗礼」を受けて「聖霊に満たされる」という空前の体験の嵐に襲われたのです。それは「突然、激しい風が吹いて来るような」霊の暴風でした( 使・行2・1)。その途端、彼らは一瞬にして変えられたのです。「もう一人のキリスト」に変容したのです。  

彼ら(百二十人位の弟子たち)の変容した姿・・・中でも一人の下女を恐れて、キリストの弟子であることを否み通した臆病なペトロが、数千人のユダヤ人の前にすくっと立って堂々たる宣教の第一声を放ち、「私たちはキリストの復活の証人である」(使・行2・32)と宣言する声を聞き、無学文盲(もんもう)、目に一丁字もないはずの漁夫ペトロがヨエルの予言を口にし、ダビデの言葉を引用して語り続ける英知の霊の働きを目にした時、数千名のユダヤ人たちは、彼ら弟子たちの中に注がれた「霊の賜物」に圧倒されました。  

そして凡そ三千人を数える人たちは、ペトロの言葉に従い「悔い改めて」(回心して)イエスの名によって洗礼(もちろん聖霊による洗礼)を受け、そして賜物である聖霊を受けました。「その日、仲間に加えられた三千人ほどの人たち」(使・行2・41)によって、新しい共同体(エクレシア)が呱々の声をあげたのです。  

現代においても、福音を信じ、回心して自我の執着を絶ち切り、聖霊に一切を委ねて洗礼を受けた時、私たちはお約束通り賜物である聖霊に満たされ、聖霊体験の喜びに満ち溢れてキリストの証人に変容したはずです。そういう体験をすでに体得された人たちには、今改めて聖霊体験を味わうための「待つ時」(心の準備)は必要ではありません。  

しかし、幼児洗礼の信者は、言うまでもなく、教会の慣例に従って小学校高学年(12・13才前後)でその後の堅信を受けた子供たち―もちろん洗礼や堅信は立派な秘跡ですから、全く意識も信仰もない幼児でも、洗礼によって「父と子と聖霊のみ名に入れられ、神の子らになった」ことは疑いありませんし、その時すでに聖霊を戴いて「聖霊のお住みになる神殿」になっていることも間違いのないところでありますが―あるいは成年受洗でも「聖霊による洗礼」の奥義を充分に教えられず、従って不十分な回心(自我開放と聖霊への委託)なしに洗礼を受けた人たちが、キリストの真の証し人になるためには、「前に私から聞いた、父の約束されたもの(聖霊の働き)を待ちなさい」(使・行1・4)と主のみことばに従って、少し待たねばならないでしょう。   

初代の直弟子たちは、数年にわたってイエスと行動を共にした挙句、十字架の犠牲と復活を目撃したのですから、僅か十日間の静修で、聖霊降臨の実現を見ました。  

けれども、ヘドロのような汚濁に澱(よど)んで世俗の垢(あか)に塗(まみ)れて生きる私たちの「人の性(さが)」にとって、自我への執着からの解脱は、そんなに容易なことではありません。もちろん神の息吹(ルアッハ)・聖霊はお望みのままに吹き荒れて一瞬のうちに教会の敵サウロを最高の使徒パウロに変容されたように、私たちを自由に変容させることがおできになります。聖霊はあくまで自由なお方であり、一切の規制を超越しておられます。  

ではありますが、普通に、私たち人間の方からの協力をもお求めになります。その協力とは、自己凝視と神との語らいの中に、静かな瞑想のひととき(普通は7・8週間にわたる)を過ごして、私たち一人ひとりのいのちの奥に「霊の場」を用意することです。  

それこそ、予言者イザヤが洗礼者ヨハネを送って、私たちに命じたところです。  

「主の道を整え、  
その歩む道をまっすぐにせよ。  
すべての谷は埋められ、  
すべての山や丘は低くされ、  
曲がりくねった道はまっすぐに、  
でこぼこな道は平らにされ、  
人は皆神の救いを見るであろう」(ルカ伝3・6)

この7・8週間の研修の時を、  
「 聖霊による生活刷新セミナー 」と呼びます。


以上、『聖霊体験を生きるー聖霊による生活刷新セミナーの手引きー』(小林有方著 平成元年カリスマ刷新ロゴス出版部発行)(絶版)から抜粋しました。